同志社大学のラグビー部がどのように生まれ、創部当時の学生たちがどんな思いで最初のボールを追いかけていたのかをきちんと知りたいと感じている人は多いのではないでしょうか?本記事では1911年に始まった同志社大学ラグビー部の創部の背景と、その後の発展や現在の取り組みまでを大学ラグビー初心者にも分かりやすく整理し、試合観戦や進路選択の場面でより深く物語を楽しめるようになることを目指します。
- 創部年と日本ラグビー史での位置づけがひと目で分かる内容です。
- 慶應や旧制三高との関係から京都に広がったラグビー史を整理できます。
- 創部の精神が現在の同志社大学ラグビー部の目標や制度にどう続くか理解できます。
同志社大学ラグビー部の創部をめぐる基本情報と全体像
同志社大学ラグビー部の創部について基本から押さえたいとき、まずはいつどこでチームが誕生し日本ラグビー史の中でどのような位置にいるのかを把握したくなるものです。複数の公式資料によれば1911年11月に同志社大学ラグビー部が京都で産声を上げ、慶應義塾や旧制第三高等学校に続く日本で三番目に古い大学ラグビーのチームとして歩み始めたとされており、その全体像を知ることで創部をめぐるエピソードが一つの長い物語として見通せるようになります。
1911年という創部年は日本ラグビー史でどんな意味を持つか
1911年という同志社大学ラグビー部の創部年は、ラグビーが日本に紹介されてからまだ広く浸透しきっていない時期であり、慶應義塾と旧制第三高等学校に次ぐ三番目の大学ラグビーチームが京都で生まれたことを示しています。関東と関西にそれぞれ拠点となるチームが整ったことで遠征や定期戦を通じて大学どうしが競い合える環境が整備され、同志社大学ラグビー部の創部は日本ラグビー全体のレベルアップに大きく貢献したと理解できます。
創部を動かした学生たちと指導者たちの姿
同志社大学ラグビー部の創部を実際に動かしたのは、海外のスポーツに強い関心を持ち新しい競技を自分たちのキャンパスに根付かせたいと願った当時の学生有志と、それを支えた教職員や指導者層でした。ルールも戦術も分からないなかで彼らは先行していた慶應の選手を京都に招き、講義と実技を通じてラグビーを学びながら練習環境やクラブの形を整え、同志社大学ラグビー部の創部に必要な基盤を自分たちの手で築き上げていきました。
創部の舞台となった京都と同志社キャンパスの雰囲気
1911年前後の京都は、近代化と伝統文化が交差する都市として学生たちの間で新しい学問やスポーツが次々と受け入れられていた時期であり、この空気感が同志社大学ラグビー部の創部にも大きな追い風となりました。煉瓦造りの校舎や礼拝堂が並ぶキャンパスには留学生やキリスト教に触れる学生も多く、海外発祥のラグビーという競技を通じて人格形成と国際性を養おうとする土壌があり、その環境が創部の挑戦を温かく後押ししていたと考えられます。
慶應との定期戦が始まり伝統カードとして根付くまで
同志社大学ラグビー部の創部から間もない1912年には早くも慶應との定期戦が始まり、当初はルールの理解も経験値も違う相手に食らいつくこと自体が大きなチャレンジだったと伝えられています。毎年の定期戦を重ねるなかで京都と東京を往復する遠征が当たり前になり、試合だけでなく交流会や談話を通じても互いの価値観が混ざり合うことで、同志社大学ラグビー部の創部精神は「伝統の一戦」を通じて磨かれていきました。
創部年や始まり方に関するよくある誤解
同志社大学ラグビー部の創部については、最初の試合が行われた年や部員が本格的に増えた時期と混同され、1910年頃や1912年創設といった誤った情報が語られることもあります。創部の公式な年は1911年であり、その後に慶應や旧制第三高等学校との交流を通じて競技経験が急速に積み重なった結果としてチームの体制が固まっていったため、始まりのプロセスを時間軸で整理して理解すると同志社大学ラグビー部の創部像がよりはっきりしてきます。
ここまで見てきた創部の基本情報をさらに直感的に把握するために、同志社大学ラグビー部の創部から黄金期までの主な出来事を簡単な年表形式で整理しておくと、他大学との関係性や歴史の長さをイメージしやすくなります。同志社大学ラグビー部の創部を軸にした年表を眺めることで、草創期から現在までの時間的なスケールをつかみ、自分がどの地点のラグビーを見ているのかを俯瞰できるようになります。
| 年 | 時期 | 出来事 | 主な相手や大会 | 創部との関係 |
|---|---|---|---|---|
| 1911年 | 明治末期 | ラグビー部創部 | 学内有志による結成 | クラブ組織が正式に誕生 |
| 1912年 | 大正初期 | 慶應との定期戦開始 | 慶應義塾大学 | 国内最古級の大学定期戦が成立 |
| 1923年 | 大正中期 | 関東強豪との対戦拡大 | 早稲田大学など | 全国的な交流の土台が形成 |
| 1925年 | 大正末期 | 明治との対戦本格化 | 明治大学 | 関東四強との対戦網が完成 |
| 1963年 | 昭和中期 | 関西リーグで躍進 | 関西学生Aリーグ | 戦後の強化が実を結び始める |
| 1980年代 | 昭和後期 | 大学選手権制覇を重ねる | 全国大学選手権 | 創部以来の黄金時代が到来 |
このように同志社大学ラグビー部の創部からのおおまかな年表を押さえると、単に1911年という数字だけでなく、その後の関東勢との対戦や大学選手権での躍進を連続した物語として捉えやすくなります。創部の一歩から始まった歩みが、京都の一クラブを越えて大学ラグビー全体の歴史と結びついていることを意識することで、今日の試合を見る目線にも厚みが増していきます。
1911年前後の京都とラグビー受容の背景

同志社大学ラグビー部の創部を理解するには、1911年前後の京都がどのような都市であり学生文化がどのように変化していたのかを知っておくことが役立ちます。伝統産業と近代的な工業や教育機関が共存していた京都では、新しいスポーツを通じて人格形成を図ろうとする動きが強まり、その流れの中で同志社大学ラグビー部の創部が自然な選択肢として受け止められていきました。
京都の学生文化と新しいスポーツへの関心
明治末から大正初期にかけての京都は、大学や専門学校が増え学問だけでなくクラブ活動や音楽、演劇など多様なサークルが誕生したことで学生たちの自己表現の場が広がっていました。勉強に加えてスポーツを通じて心身を鍛えることが重視され始めた時代背景の中で、同志社大学ラグビー部の創部は新しい競技で自分たちの可能性を試したいという学生側の欲求と、全人教育を掲げる学校側の方針がかみ合った結果として生まれたと見ることができます。
旧制第三高等学校や京都大学との関係
同志社大学ラグビー部の創部に先立って京都では旧制第三高等学校がラグビーを導入しており、その存在が地域のラグビー文化の土台を作っていました。同志社の学生有志は慶應の選手だけでなく第三高等学校の選手とも交流しながらルールや練習方法を学び、ライバルでありながら協力関係にもある近隣校の力を借りることで短期間に同志社大学ラグビー部の創部レベルを公式戦に耐えうる段階まで引き上げていきました。
英国発祥のラグビーが同志社で選ばれた理由
多くのスポーツの中からラグビーが選ばれ同志社大学ラグビー部の創部につながった背景には、英国発祥の競技が持つ教育的価値が重視されたことがありました。楕円球を追いながら仲間と協力しつつも激しくぶつかり合うラグビーは、知性と勇気とフェアプレーの精神を同時に要求する競技として理解され、キリスト教主義とリベラルアーツを掲げる同志社の教育理念と響き合ったため、創部を決断するうえで大きな後押しとなりました。
このような京都の学生文化や周辺校との関係を踏まえると、同志社大学ラグビー部の創部は単なる一クラブの誕生ではなく、地域全体で新しいスポーツを受け入れようとする流れの中で生まれた共同プロジェクトだったと見えてきます。創部の舞台裏にあった都市の雰囲気や周囲との連携を意識して歴史を読み解くことで、現在の関西大学ラグビーの厚みがどこから来ているのかをより立体的に理解できるようになります。
創部から戦前までの同志社ラグビーの歩み
1911年に同志社大学ラグビー部が創部されてから第二次世界大戦に至るまでの期間は、日本全体が激しく変化する時代でありチームの歴史もまた大きな波に揺さぶられました。草創期の挑戦から大正期の拡大、昭和初期の戦術面での進化、そして戦争による活動制限までを一続きの流れとして捉えると、創部当初の志がどのように試され継承されていったのかが見えてきます。
大正期の対戦拡大と関西ラグビーの拠点化
大正期に入ると同志社大学ラグビー部は慶應だけでなく早稲田や明治など関東の強豪とも次第に対戦するようになり、遠征や合宿を通じてプレーの質を高めていきました。例えば創部からほどない時期の慶應との試合をケーススタディとして見ると、一方的な展開になった試合であっても学生たちは相手の戦術やフィットネスを持ち帰って練習に反映させ、悔しさをエネルギーに変えながら同志社大学ラグビー部の創部精神を実戦の中で鍛え上げていったことが分かります。
昭和初期の戦術変化と学生主将の役割
昭和初期になると日本ラグビー全体でフォワードとバックスの役割分担やキックの活用方法など戦術面の工夫が進み、同志社大学ラグビー部も創部当初のシンプルな走力頼みのスタイルから判断力と連携を重視するラグビーへと変化していきました。学生主将が練習メニューや試合のゲームプランを主体的に考える文化が根付き、創部以来の「自ら学び考える」姿勢がチームづくりの中心に据えられたことで、監督と選手が対話しながら戦い方を磨くスタイルが形作られました。
戦争の影響と活動縮小の時期
日中戦争から太平洋戦争へと状況が悪化していくなかで、多くの学生が召集されるようになり同志社大学ラグビー部の活動も大きな制約を受けるようになりました。十分な人数が集まらず試合どころか練習さえままならない時期もあったとされますが、そのなかでも創部以来受け継がれてきた仲間意識と信頼関係によって少ない部員同士が支え合い、終戦後に再びチームを立ち上げるためのつながりだけは途切れないよう守り抜かれていきました。
戦前期のエピソードを振り返ると、同志社大学ラグビー部の創部に込められた「新しい競技に挑戦する勇気」は、勝敗だけでなく困難な社会状況の中でクラブを存続させる粘り強さとしても発揮されていたことが分かります。試合の記録だけでなく、遠征の旅程や部員同士の手紙といった断片的な資料を重ね合わせることで、創部から戦前までの歩みが人間味のある物語として浮かび上がり、現在のチームが背負う歴史の重みを実感できます。
戦後の黄金期と大学選手権での躍進

戦後の混乱期を経て再出発した同志社大学ラグビー部は、練習環境の整備や指導体制の強化を進めながら徐々に実力を取り戻し、やがて大学選手権で頂点を争う存在へと成長していきました。特に平尾誠二らを擁した時代を中心にした黄金期は、創部以来培われてきた自立心と京都らしい自由な雰囲気が高いレベルで結びついた瞬間として語られており、創部の精神が結果として結実した象徴的な時期と見ることができます。
平尾誠二らが牽引した大学選手権制覇のインパクト
戦後の同志社大学ラグビー部を語るうえで欠かせないのが、平尾誠二らスター選手を中心に大学選手権を制した時期であり、当時のチームは創部から続く「自ら考えるラグビー」を洗練させた存在として全国から注目されました。テレビ中継を通じてそのスタイリッシュな攻撃や素早い展開が多くの高校生や子どもたちの目に焼き付き、同志社大学ラグビー部の創部から脈々と続くスタイルが新たな世代の憧れとして受け止められたことも大きなインパクトでした。
紺グレジャージと同志社らしいスタイルの確立
紺とグレーのジャージは同志社大学ラグビー部を象徴するアイコンとなっており、その色使いには落ち着いた品格と挑戦的なスピリットを同時に表現する意味合いが込められています。創部当初は限られた予算の中でユニフォームを揃えること自体が一つの挑戦でしたが、戦後の黄金期には紺グレのジャージが全国のラグビーファンに知られる存在となり、同志社らしい自由で創造的なプレースタイルのイメージと強く結びついていきました。
大学ラグビーブームの中で果たした役割
1980年代には大学ラグビーが全国的なブームとなり、多くの試合がテレビや新聞で大きく取り上げられるようになりました。同志社大学ラグビー部は創部以来の歴史の長さと黄金期の華やかなプレーによってそのブームをけん引する立場となり、関西発の魅力的なラグビーを全国に発信することで競技人口の拡大や他大学の強化にも良い影響を与えました。
戦後から黄金期にかけての流れを整理すると、同志社大学ラグビー部の創部当初に掲げられた教育的な理念が、結果として全国タイトルや人気の高まりという形で結実したことが見えてきます。特定のスター選手の活躍だけでなく、日々の練習やOBの支援、地域とのつながりなど多くの要素が折り重なって黄金期が生まれたことを理解すると、現在の成績だけでは測れないクラブの価値に目を向けられるようになります。
- 複数ポジションをこなせる選手が多く柔軟な戦術が可能だったこと。
- 創部以来の自立心を重んじる文化がゲームメイクの自由度を高めたこと。
- 京都という土地柄が遠征時のホスピタリティや交流の深さにつながったこと。
- OBが指導者や支援者として戻り世代間の学びの循環が生まれていたこと。
- テレビや雑誌を通じて紺グレのブランドイメージが全国に浸透したこと。
- フィットネスとスキルの両立を重視する練習方法が時代の最先端だったこと。
- 勝敗だけでなく人間的成長を評価する風土が選手のモチベーションを支えたこと。
これらのポイントを踏まえると、黄金期の同志社大学ラグビー部は単に強いチームだっただけでなく、創部から受け継がれてきた価値観と時代の要請がうまく噛み合った結果として特別な輝きを放った存在だったことが分かります。現在の成績に一喜一憂するだけでなく、黄金期を生んだ条件を丁寧に振り返ることが、これからの同志社大学ラグビー部の創部精神を次の時代につなぐうえでも大切だといえます。
創部精神が今のチーム運営やキャリア教育にどう生きているか
近年の同志社大学ラグビー部は結果面で厳しいシーズンを経験しながらも、創部以来の理念を現代的に解釈し直しチーム運営やキャリア教育に落とし込もうとする取り組みを進めています。1911年に同志社大学ラグビー部が創部された際に掲げられた知性と人格と身体のバランスを重んじる姿勢は、勝敗だけでなく卒業後の社会でどのように生きていくかという視点を含んだ育成方針として、今もクラブの根っこを支えています。
「知徳体」の理念と創部当時から続く人間教育
同志社大学ラグビー部の基本理念として語られる「知徳体」の三位一体は、創部当初から教育とスポーツを切り離さない姿勢を示すキーワードでした。授業や研究で得た知性と、ラグビーの練習や試合で培う身体能力、そして日常の生活態度を通じて育まれる徳性を一体のものとして捉えることで、勝利だけでなく社会に出てから信頼される人物になることを目的とした人間教育が行われており、これは創部当時の価値観とも通じる部分が多いといえます。
運営を支える法人や研修会に見える現代的な支え方
2020年代に入ると同志社大学ラグビー部の継続的な強化と人材育成を支えるために、チームの運営や資金面を支援する法人や、OBや専門家を招く研修会といった仕組みが整えられるようになりました。こうした取り組みは創部当時に学生たちが自ら動いて慶應の選手を招いた姿勢を現代的に発展させたものともいえ、社会で活躍する卒業生や地域の人々がパートナーとして関わることで、同志社大学ラグビー部の創部精神が新しい形で可視化されています。
創部を理解して応援や進路選択に生かすヒント
同志社大学ラグビー部の創部から現在までの流れを知っておくと、観戦する試合や選手のコメントに込められた意味をより多く読み取れるようになり、高校生や受験生にとっては進路選択の材料としても役立ちます。例えば苦しいシーズンであっても1911年から続く歴史の一部だと捉えれば、一つ一つのプレーや表情の背景にある覚悟や責任感が見えてきて、単なるスコア以上のストーリーを感じながら同志社大学ラグビー部を応援できるようになります。
このように現代の取り組みを創部の物語と結び付けて眺めることで、同志社大学ラグビー部の創部は過去の出来事ではなく今も続くプロジェクトの出発点なのだと実感できます。歴史を学ぶことが単なる知識の暗記ではなく、自分がどのような価値観でスポーツや学びと向き合うかを考えるきっかけになる点に、創部の物語を深掘りする大きな意義があります。
まとめ
1911年に京都で始まった同志社大学ラグビー部の創部の物語は、慶應や旧制第三高等学校との交流を通じて日本ラグビー全体の発展に貢献し、戦後の黄金期や現代のキャリア教育にも続く長い歴史の出発点でした。創部当時の学生たちの挑戦と地域やOBの支え、そして「知徳体」という人間教育の理念がどのように重なり合って現在のチームを形づくっているかを押さえることで、観戦や応援、進路選択のどの場面でも自分なりの視点を持って同志社大学ラグビー部と関わっていけます。
参考文献
本記事では同志社大学ラグビー部の創部に関する複数の一次資料や公式情報、報道記事をもとに内容を整理し、大学ラグビーに詳しくない人でも流れを追いやすいように要約しました。以下に挙げる文献や記事を手掛かりに、自分でも創部の物語をより深くたどってみると、新しい発見が増えていきます。
- 日本ラグビーフットボール協会 日本ラグビーデジタルミュージアム「同志社ラグビーの功績と存在感」 公開年不詳 最終閲覧日2026年1月30日。
- 一般社団法人DRC「組織概要」 同志社大学体育会ラグビー部紹介 2025年頃公開 最終閲覧日2026年1月30日。
- テレ朝ニュース「同志社大学ラグビー部 名門復活に向け」 2025年10月2日公開 最終閲覧日2026年1月30日。
- PR TIMES「1911年創部の伝統校 同志社大学ラグビー部が公式アプリをリリース」 2025年8月1日公開 最終閲覧日2026年1月30日。
- 同志社大学公式サイト「History of DOSHISHA #5 〜150年の歴史をたどる」 2025年9月26日公開 最終閲覧日2026年1月30日。
- 同志社大学ラグビー部公式サイト「ABOUT 同志社大学体育会ラグビー部の歴史」 公開日不詳 最終閲覧日2026年1月30日。
- 同志社スポーツアトム編集局「ラグビー部 創部113年 史上初の全敗」 2023年12月2日公開 最終閲覧日2026年1月30日。
- MBSラジオ番組ページ「2021年12月7日放送分 同志社大学ラグビー部 MORE」 2021年12月7日公開 最終閲覧日2026年1月30日。
これらの資料を読み比べると、同志社大学ラグビー部の創部に関する記述の仕方や強調点に微妙な違いがあることが分かり、その差異を手がかりに自分なりの歴史の見方を育てることができます。数字や年表だけにとらわれず、当時の学生や関係者が何を大切にしながらラグビー部をつくり上げていったのかを想像し続けることが、創部の物語を今につなげる一番の近道になります。


